茨城育樹祭ビラ弾圧救援会

ビラをまいたら1年後に逮捕 !? ◆ デッチ上げから二人を取り返せ !!

水戸150号意見陳述要旨【勾留理由開示公判】

 本日は潮来育樹祭に反対する会議、略称いい会議の一年越しの集会にお集まりいただきありがとうございます。(「この会場は我々が占領した!」とかやりたいところですがやめておきます。) 

 私たちいい会議は、昨年十一月十一日に潮来市内で行ったデモをもって基本的には活動を終了したと考えていました。しかし今月十一日早朝に突然やって来た茨城県警公安課から、闘いはまだ終っていないと教えられ、昨年のデモの時には会場をどーしても借りられずに断念した集会を、潮来市内ではないとは言え、こうして開くことができました。本集会開催のきっかけを作った茨城県警公安課、ありがとう。勾留延長した水戸地方裁判所もありがとう。会場を貸して、もしかすると集会を共催しているのかもしれない水戸簡易裁判所、ありがとう。そして弁護士のみなさん、救援会のみなさん、今日来て下さったみなさん、本当にありがとう。

 

 私が話すのは二つです。育樹祭についてはこの後に予定されている仲間が話すと期待して、私は別のことを話しましょう。 

 私は現在被疑者であり、まだ裁判にかけられるかどうかすら決っていません。しかるに私はここに来る際、手錠と腰縄を付けられています。留置場の外に出る時は毎回です。検察、裁判所に行く際には建物内で向く方向まで決められています。留置場においては、内心の他に自由はありません。三畳トイレ付の房に入れられ、トイレには大きな窓があって中を覗かれます。食事も就寝も全て時間で決められています。ラジオは昼十五分だけ朝のNHKニュースが録音で流れます。読書は前日届けを出した三冊まで、本と同時にボールペンは入らないため、本を読みながらメモも取れません。一犯一語*1もできません。古典ギリシア語の学習ができません。くり返しますが、私はまだ罪に問われてすらいません。接見禁止なので家族や友人と手紙のやり取りもできません。これのどこが先進国ですか! これのどこが民主主義ですか! こんな国のどこに人格があると言えますか! 少なくとも留置場に人権はありません。私はまだ拘置所と刑務所に入ったことはありません。入管施設に入ったこともありません。しかし同様の扱いだろうと思います。法律上はもう監獄とは言わないのかもしれませんが、全ての監獄は解体されるべきです。(精神病院や介護施設等も含めた全ての拘禁施設も解体されるべきです。)全ての被収容者に人権を! 全ての収容施設に対する即時の改善を! そして遠くない将来の解体を! 

 

 それから天皇制についてひとつだけ。天皇制は存在するだけで基本的人権を破壊します。基本的人権とは、全ての人に生まれた時から与えられている人として当たり前の権利です。天皇制同様もちろんフィクションですが、基本的人権を前提にして今の世界は成立しています。人類が到達した、世界にとって必要なフィクションです。日本政府もそれを受け入れています。全ての人に与えられている、とは全ての人は平等だと言うことです。しかし天皇制は特別な人が一人だけいると主張しています。これは全ての人は平等だ、と対立します。日本国憲法はこの対立に目を瞑っています。日本国も目を瞑っています。私たちのいる社会もまた、目を瞑っています。特別に偉い人がいれば、全く偉くない、むしろ蔑まれる人が出て来ます。これは差別です。基本的人権は差別を認めません。つまり、天皇制は基本的人権と対立するどころか、基本的人権を破壊します。それは、今のこの世界をすら破壊しかねない危険な制度だということです。これは、天皇制に限らず全ての王制について言えることです。全ての王制は、潜在的基本的人権を破壊し、今のこの世界を破壊する有害さを持っています。しかし、ただでさえ同調圧力の強いこの日本国において、その有害さは隠されてなどいません。天皇制反対のデモには右翼が暴力をふるい、怪我人が出ても警察は暴力を容認します。天皇制に反対する人はネットに顔と名前を晒されます。警察に執拗につきまとわれます。日常生活においても、社会のなかでも天皇制に反対する言説は自由に行えません。テレビにも新聞にも天皇制反対の声は表れません。そして、天皇制に反対すると私のように囚われ、見せしめとされます。 

 ですが、囚われたからどうしたと言うのですか。私は天皇制に反対します。天皇制の行事である育樹祭にも反対します。天皇制を解体しよう! 

 これで本集会での私の発言を終わります。 

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(救援会のコメント:水戸留置場内の待遇が悪化していることにおどろきました。知られるところでは、10年弱前は本の冊数に一日あたりの制限はなく、前日届出制でもありませんでした。外国語書籍が入らないのは、書かれていることが管理者側に理解できず、外部からのメッセージが含まれているおそれがあるため、また本と筆記具が同時に使えないのは、本に書き込みをして収容者同士が連絡を取り合うことで脱獄が計画されたことが以前あったからと説明されています。社会の監視の目と批判の声が届きにくい場所を、当該陳述にあるように人権の観念のない組織に委ねたままにしておくとどういうことになるか、100年以上前の大杉の時代よりある部分は悪化し、「人類が到達した」地点からこの国はさらに退歩していくことが確認できます。)

*1:大杉栄の言葉で、彼は監獄に収監されるたび外国語を一つ習得したという話。